皆さん、こんにちは。
組織・人事コンサルタント i-colorカウンセラーの乾 千恵(i-colorイエロー/ピンク)です。
2019年もよろしくお願いします。

 

「天下統一」というビジョンを描いていた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人のうち、皆さんはどのタイプがお好みですか?

 

ミッションに対する成果を求められるが、家柄や勤続年数に関係なく有能なら取り立てていく織田信長でしょうか。

それとも、突飛もない作戦と並外れた人心掌握術で政権を樹立した豊臣秀吉でしょうか。

はたまた、「織田がつき、豊臣がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川」と言われても、太平の世の中を築いた徳川家康でしょうか。

 

好みは様々に分かれると思いますが、組織を率いるリーダー、トップとしての姿を考えてみましょう。

 

組織の多くは「ミッションを達成し、永続すること」が求められています。だとすれば、優秀なリーダー、トップとは、「組織が目指す方向(ミッションやビジョン)を提示し、その実現に向けて最適な体制を構築できる人」ということができるのではないでしょうか。

 

上記の3人の中で、それをやり遂げたのは徳川家康、ただ一人です。

 

織田信長は、部下(明智光秀)にミッション・ビジョンを理解されず、殺されてしまいます。

豊臣秀吉は、信長のミッション・ビジョンを引き継いだのは良かったのですが、永続させるための体制を作ることができませんでした。

徳川家康は、「戦のない世の中」というビジョンのもと、260年にも及ぶ安定した幕府体制の基盤を作り上げていきます。(正確には完成させたのは孫の家光ですが・・・)

信長も秀吉もトップダウン型のカリスマ的リーダーシップを発揮していたのだとしたら、家康は俯瞰力の高い、情報分析型のリーダーシップを発揮していたと言えるのではないでしょうか。

1) 「江戸」を政治拠点の中心に選択することで、前政権の影響を最小化。

 

信長も秀吉も政治の拠点としたのは、天皇がいる京都のすぐ近くでした。天皇と仲良くすることで政権の安定をもくろんでいたのです。

一方、家康は「征夷大将軍」という天皇からのお墨付きをもらうことで武家社会の統率者の資格をもらい、政治の拠点を京都から遠く離れた江戸に置きます。京都とはつかず離れずの関係であろうとしていました。

家康が秀吉から関東を拝領した時、秀吉から守りやすく攻めがたい江戸湾の地形と広く拓けた関東台地から家康に江戸を薦めたと言われています。

家康も、北条氏の城下として成熟していた小田原、海と山に挟まれた鎌倉よりも、都市としては未発達で広大な大地に恵まれていた「江戸」に可能性を感じていたのではないでしょうか。家康は家臣たちと共に、「江戸」の街づくりに励んでいきます。政治の中心となるべき広大な城の建設、街全体を外敵から守るための「の」字型の都市構造など様々な工夫を凝らしていきます。

 

2) 現政権のリスクは徹底的に排除

 

家康は、今川義元亡きあとの今川氏、武田信玄亡きあとの武田氏、信長亡き後の織田氏など突出したリーダーが居なくなった後の組織の衰退をわが身で実感してきていました。その経験が花開いたのが、秀吉亡き後の天下取りに向けた動きです。晩年の秀吉政権は妬みと嫉みが渦巻いていました。本来は秀頼が成人するまでは・・・と一致団結すべきところなのに、恨みや憎しみの感情を抱いた対立構造が生まれていました。秀吉が亡くなる前の朝鮮出兵辺りから、家康は秀吉政権内のほころびを見つけては取りなしたり、愚痴を聞いてあげたり、「頼りになるは家康殿」作戦を実行していきます。

その結果、関ヶ原の戦いで勝利し、「征夷大将軍」の座まで掌中に収めます。豊臣秀頼と淀の方からすれば、関ケ原の戦いは三成と家康という豊臣の家臣同士の主導権争いだったはずが、いつの間にか政権そのものを奪取されていたのですから、激怒するのは当然のこと。この「激怒」も家康にとっては計算済みの話だったと言われています。

ジワジワと豊臣家を追い詰めていきます。戦国時代を生き残ってきた武将たちは豊臣家と徳川家のどちらに時世の流れがあるかを見極めていましたから、「大坂の陣」では大名クラスの武将が豊臣方に味方することはありませんでした。「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼし、徳川家のリスクとなる勢力を排除することに成功しました。

 

 

少し時間が前後しますが、家康は徳川家そのものが抱えるリスクの排除に向けて動き出していました。

家康には何人もの成人した男子がいました。養子に出したけど武勇の誉れ高い結城秀康、関ヶ原の戦いに遅刻した秀忠、関ケ原の戦いで負傷するくらい獅子奮迅の活躍をみせた忠吉など候補者が多数いたので、家康は家臣たちに意見を募ったと言います。

なかなか決着がつかない間に忠吉が関ヶ原の戦いでの傷が癒えずに亡くなってしまいます。家康は迷った末に秀忠を後継者として、征夷大将軍の座を譲ることを決断します。

これにより「征夷大将軍は徳川家で継承するもの」と世間に印象づけることに成功します。

 

3) 将軍の力量に左右されないで政権を運営する組織の構築

 

家康が、3人の中で一番優れていたのは組織を構築するスキルです。信長や秀吉も部下の能力を見極め、適材適所に配置するスキルは長けていました。家康の場合、家臣たちを単なる自分の部下として扱うのではなく、自分を補佐してくれる存在として扱っています。

例えば、戦については、徳川四天王と呼ばれる井伊直政、本田忠勝、酒井忠次、榊原康政といった武将として有能なメンバーに意見を尋ねています。一方、治世については本田正信、天海僧正、金地院崇伝、林羅山といった僧侶や学者といったメンバーに意見を尋ねています。

これは家康だけではなく、2代将軍秀忠以降の将軍たちも自分が信頼するブレーンを召し抱え、側用人や老中格など一代限りの役職に据える習慣が残っていきます。将軍によるトップダウンではなく、将軍を中心としたブレーンによる合議制です。

 

信長も秀吉も「天下統一」というビジョンは描いていましたが、家康は「天下統一」で終わらず、その先のビジョンを描いていました。家康が「自分が到達したい世界」ではなく、「自分以降の世代にも続く世界」を描いたからこそ、秀吉に服従しながらも着々と準備を進め、「その時」を待つことができたと言えるのではないでしょうか。そして、家康が描いたとおり、260年以上という長期にわたり、日本は「戦」とは縁遠い時間を過ごすことができました。

とは言え、260年以上も続けば、ほころびも出てくるし、時流に沿わないことも出てくるし、イギリスの産業革命による世界情勢の変化もあって、徳川幕府は終わりを迎えます。

 

組織を率いるトップがどのようなビジョンを描き、実現に向けた行動を起こしていくのかで、「組織の寿命」が決まるといっても過言ではないと思います。

 

徳川家康のように、忍耐強く、自分がやりたいと思ったことを時間かけてでも、取り組めるタイプはi-color診断のオレンジに多いタイプです。やりたいことを雄弁に語るタイプではないので、家康のようにやりたいことを実現するためのアイデアを出してくれたり、周りを巻き込んでくれるブレーンを重用されるのが良いかもしれません。