こんにちは!久しぶりの投稿になります、キュレーターの小山 佐知子です。

ふだんは「家族 × 働く」をテーマに、キャリアや働き方の視点からコミュニティ運営や執筆、研修登壇、コンサルティングを行っています。

  
今回は私ごと、昨年末に夫の突然の入院と結婚10周年を迎えて感じたことをエッセイとして綴ってみました。
   
はぴきゃりアカデミーの分校でi-colorを伝える活動もしている私は、これまで受講生たちに「みんなちがってみんないい」「違いこそ価値」と当然のように説いてきました。そんな私が夫の入院という突然の事態で揺らぐことになった「同質こそ価値なのではないか?」の問い。
   
結婚記念日を前にギクシャクした関係が続いた3ヶ月前を振り返り、「夫婦とは」「素質の活かし方とは」を改めて考えてみました。
   
“発案グループあるある” なのか、言わずもがな長文ですが(笑)、ご笑覧いただけると嬉しいです。

————————————————————————————————————————————————

 

ギクシャクの末に迎えた10回目の結婚記念日

人も街も浮き足立った年末の慌ただしい中、私たち夫婦は記念すべく10回目の結婚記念日を迎えた。
  
人生で最も華やいでいた10年前のあの日。 健やかなるときも病めるときも…と定例句を並べて誓ったものだが、今振り返ると、「言うは易く行うは難し」な歳月だった。どんな時も相手を敬い慈しむというのは実に難しいものだ。
   
それでも、私たちなりにいいときも悪いときも二人三脚で歩んできたこの10年。互いが趣味や仕事に没頭したDINKS期、子どもを授かる確率がほんのわずかだと知ってから怒涛のごとく突入した妊活期、そしてそんな苦労の先に手にした現在の育児期。結婚式でよく聞くフレーズ、「悲しみは半分に、喜びは二倍に」とはよく言ったもので、ここまでの結婚生活はまさにその通りだったように思う。
   
そんなこんなで、迎えた10周年。節目の結婚記念日くらい、ゆったり落ち着いた場所で当時の微かな余韻に浸ってみたいなぁ……と、私はかなり前からこの日を(密かに)楽しみにしていた。
   
ということで、本来ならば「満を持して」迎えるはずだった結婚記念日。が、実際はなんともあっさりしたものだった。数週間前から夫婦喧嘩が絶えず、家庭内はすっかりカオス。お祝いムードとは無縁な日常がしばし続いたこともあり私自身、半ば儀礼的な心境でハレの日を迎えることになってしまったのだ。

 

相手の立場に立つということ

記念日当日、夫と私は息子を実家に託してホテルランチにでかけた。35階の大きな窓からは冬晴れの空に映える富士山が一望できて、空間は非日常。
  
喧嘩の日々が続いていたとはいえ、せっかくのハレの日。乾杯のシャンパンや、お肉に合わせて普段飲めない赤ワインも楽しみたいところだった。が、この日、夫はお酒が飲めなかった。普段お酒に強い夫がこんな日ですら断酒せざるを得なくなっているこの状況こそ、混沌とした日々を過ごすことになったきっかけだったのだ。
  
結婚記念日からさらに遡ること1ヶ月。半年間の住宅リノベーションの末に引っ越した新居で、開梱作業に精を出していた夫は突如、坐骨の痛みに悲鳴をあげた。古傷である椎間板ヘルニアの6年ぶりの再発だった。夫はあまりの激痛に数日間のたうち回り、遂には会社にも行けなくなるほど苦しんだ挙句、新居完成の喜びに浸る間もなく入院することになった。ヘルニア摘出手術を受け、その後は約2週間の入院生活を強いられた。
  
私と息子は引っ越し早々2人暮らしとなり、私は2日に1度は保育園のお迎え前に夫に面会するために病院に立ち寄ることにした。もともと夫はよく家事をする人なだけに、家庭内マンパワーの減少は私にとって想像以上に堪え、改めてたくさんの家庭内タスクを器用かつ効率的に回していた夫のスキルの高さを思い知った。と同時に、仕事と家事育児のストレスから次第にイライラする頻度も増えてしまった。
  
「いやいや、大変なのは私じゃなくて彼なんだから……」
   
夫の立場に立たねば!と何度も思い、でも、そう思えば思うほど、自分のしんどさに言い訳をしたくなる。
相手の立場に立つとはどういうことなのか、次第にわからなくなっていった。

 

素質の違いが仇となるコミュニケーションギャップ

i-colorイエロー(発案グループ)の私が大切にしているものは【共感】【一体感】。大好きな人とは場所や思い出、さらには想いまでも“常に”、“心から”共有していたい。一方、夫は【マイペースな自分軸】で納得する結果を出したいi-colorグリーン(表現グループ)。特に夫はもともと感情表現やパフォーマンスが苦手でぶっきらぼうなので、私は彼との間で言葉やノリで波長を合わせられないからこそ、同じ空間の中でモノやコトを共有することを大切にし、安心感を感じていたわけだ。
 
それが、今回の入院で物理的にも離れてしまい、その上、「自分のことは自分でするから大丈夫」「本当に必要なことがあれば相談するから」と言い切られてしまったことで、共感タイプの私としては自分の入る余地がなさすぎてスッキリしない気持ちを抱き始めることになってしまった。発案グループにとって、「自分は必要とされていないかもしれない」と感じてしまうことは精神衛生全般に関わる一大事。
   
が、退院後、落ち着いたのちに夫から聞いた話によれば、当時、夫は真剣にこう思っていたそうだ。
 
「1日も早く完治させて家庭復帰・社会復帰したいと思ってそれだけがエネルギー源だった」
 
「弱音なんて吐いていられないし、できることが限られているならその限られたことで100%を目指したかったんだ」
    
おお……まさに自分志向の表現グループ。
   
そこに「自分の(辛い)気持ちをわかってほしい」といった要素は微塵もなく、今置かれた立場で結果を出すことを目標に、夫は入院期間中、必死にリハビリをしていたことを後になってよく知った。
    
が、当然、その当時はそんな風に冷静に分析できる心のゆとりもなく私の心は終始クサクサ。
   
私が面会に来ても嬉しそうな素振りも見せず、淡々と「今日持って帰ってほしいもはコレね」「明日持ってきてほしいものはコレだから」と用件を伝え、その後は決まって「もう帰っていいよ」と締めくくる夫に、私は勝手に絶望感でいっぱいになっていた。
   
もちろんこれは、「早く帰らせてあげたい」という彼の優しさから出た言葉。今思えば、心にゆとりがないとこうも自虐的に捉えてしまうものかと改めて反省する。
   
でも、仕事、家事育児の全てを一人でして、気持ちの共有ができずにストレスも溜まっていた当時の私にはとてもそんなプラス志向の余裕なく、逆に不安な気持ちは、夫への不信感に変わりつつあった。

 

踏んではいけない地雷

そして、お互いのコミュニケーションがなんとなく不自然でぎこちなくなったある日の夕方。夫から着替えを受け取り帰ろうとした私が冗談半分で吐いたセリフが彼の逆鱗に触れてしまった。
   
「もし私が逆の立場で入院していたら、あなたが来てくれたら嬉しくてギューってしちゃうのに」
   
「せっかくの個室だっていうのに家族写真の1枚も飾ってないし、気楽なマイワールドだよね」
   
私のこの捨て台詞に、夫も溜め込んでいたストレスを私にぶつけてきたた。
    
「俺は好き好んでこんな場所にいない。自由がきかないからこそ頑張ってる。家族のために!」
  
そして、すかさず私。
  
「私だって頑張ってるよ!頑張ってるのにあなたは一度も私に来てくれてありがとうとか、顔が見れてうれしいとか言わないよね。これって頑張ってる相手にすごく失礼だよ!自分だけが大変みたいな言い方しないでよ!私はあなたのパシリじゃないのよ!」

 

相手を愛する、ということ

夫は、私と息子のことを想ううがゆえ、用事が済んだらさっさとここを離れて1分でも早く息子の保育園にお迎えに行き、あとはできるだけゆっくり休んでほしいと願っていたようだ。
  
常に自分が置かれている状況を客観視する夫。相手を思うがこそ、自分より相手の利益を最優先に考え、言葉少なめにそれを伝える。さっぱりかつ端的な伝え方は表現グループならではで、発案グループの私からすると物足りなさを感じてしまう。
 
彼は彼なりのやり方で家族という自分の大切なコミュニティを必死で守ろうとしていたようだ。冷静に考えればめちゃくちゃi-colorグリーンらしい。i-colorを知っていればこそ気付けたはずのことに、もはや気づく余裕がないほど、私の心は自己中心的な不満でいっぱいになっていたようだ。
   
結局、その日の夫婦の会話は完全に「ああ言えばこう言う」の堂々巡りになり、私は感情任せに病室を出た。言ってはならない捨て台詞を吐いてしまった。
   
「みんな違ってみんないい、なんて所詮キレイゴトだよ!こんなに分かり合えないあなたとこの先10年も一緒にいられる自信、全くなくなったから!」
  
反論する間もなく一方的に言いたいこと言い残して出て行った妻に、夫は何を思っただろうか。
私は私で、深夜に一人で大反省。
   
「愛ってなんだろう……」
   
そんな哲学的なことを本気で考え始めたら頭がバーストして眠れなくなったので湯船に浸かって冷静になってみた。
そして、今まで夫が私にしてくれたことを10個頭に浮かべてみた。
  
するとびっくり。10個どころか、あっさり100個近くに到達してしまったのだ。
   
そして気付いた。その一つ一つが、「言葉」ではなく、「態度」として提供されていたことに。
 
私の帰宅時間に合わせてお風呂を沸かしていてくれたこと、灯りが灯らなくなった電球を交換しておいてくれたこと、暑くて眠れない日にそっとアイスノンを差し出してくれたこと。
  
どれも本当に些細なことだけど、どれもさりげない心配りに溢れていた。「やってあげてる」と、これ見よがしにされたことは一度もなく、いつも見返りを求めずただ愛を注いでくれていた。

私はいつしか、愛を求めるだけ求めていただけなのかもしれない。
相手のできることやしてくれていることよりも相手ができないことばかりにフォーカスし「これをしてくれない」と無い物ねだりをしていたように思う。
 
愛は、求めるものではなく、与えること。
そういえば、10年前の挙式でこんなお話を聞いたっけか。

 

素質の違い、本当の価値とは

「同質」は確かに楽だ。特に、精神状況が普段と違うときや、相手に配慮した丁寧なコミュニケーションができないような病んでいるときは、正直なところ同じ価値観タイプの人と一緒にいる方が安らぐこともある。まるでその場の肩こりを癒すクイックマッサージのように。
  
本音や弱音を吐きたいときに私が必ず相談するのはだいたい同じi-colorのイエローで、辛いポイントに共感してもらえることで(たとえ自体が改善しなくとも)それだけで満たされた気持ちになる。
  
でも、だからといって、それは「=同質こそ価値」ということにはならない。
確かに、「楽か、楽でないか」で言えば一緒にいて楽な人の方がいいときもある。が、それは「楽ではない人とは一緒にいる価値がない」ということにはつながらない。
   
一緒に生きて行く人として私が夫を選んだのには、きっと自分でも言葉にできないような理由があるのだと思う。違うから惹かれるし、違うからこそ無いものが生まれることもある。自分では思いもつかなかった提案やアイディアを与えたりもらえたり……そんなカラーとカラーの ”グラデーション” はとても美しい。
  
素質の違いの本当の価値、それは「違いを生かして相手の成長に貢献できること」ではないだろうか。タイプやカラーが同じだとか違いだとかそれを超えた先の「あなたと私」に信頼や愛情があれば、仮に違いがあっても楽しみながら乗りこなしていけるはずだ。
  
  
2018年1月下旬の今現在も、夫はまだ腰から背中に頑丈なコルセットをつけ(それも就寝時以外すべて)かなり制限された窮屈な状態にある。それでも昨夜も帰宅後洗濯をし、今朝はゴミを出して会社に行った。
  
結婚10年の今、冷静になって思うことはとにかく相手への感謝。
恋愛のようなドキドキ感はないけれど、それ以上に深い「愛」「信頼感」を今感じている。
   
「違い」や「愛」について考えたここ数ヶ月。
家族はもちろん、仕事やプライベートも大事な人と、素質を超えてペイフォワードできるような関係をつくりたい。
   

 

はぴきゃりアカデミー「共働き未来大学校」

少人数制のスクーリング形式で、4ヶ月かけてじっくり自分と向き合うプログラムを提供しています。「ワーク(仕事)もライフ(生活)も相乗効果を発揮しながら楽しみ、成長し続ける人になる」を合言葉に、育児や介護などで制約があってもキャリアを諦めない働き方を模索していきます。
詳細は、共働き未来大学「未来の自分をつくる」