皆さん、こんにちは。組織・人事コンサルタント i-colorカウンセラーの乾 千恵(i-colorイエロー/ピンク)です。

この2回ほど、組織のトップが語る「Why」の大切さについてお伝えしてきました。最後はこの方に締めていただきましょう!日本史上、ノリの良さと勢いと運だけで天下統一できてしまった男。

 

豊臣秀吉

 

皆さんもご存知ですよね、秀吉さんのこと。

織田信長の部下で、本能寺の変のあと、明智光秀を討伐して天下統一しました。ちなみに、「豊臣」という姓は天下統一後に天皇から授かったもので、「木下」「羽柴」と出世するたびに姓を変えてきました。「木下」が元々の姓で、実父は尾張中村の足軽百姓だったとされていますが、これも事実は否か不明。だとすれば、氏素性もよく分からない人が天下を取ってしまったのですから、まぁ、とにかく「運」だけは強い!

 

「継父と喧嘩して家出したら、天下取っちゃった」

 

秀吉の人生を一言で言うとすれば、こんな感じです。

秀吉は、子供のころに実父を亡くし、母が信長の茶坊主をしていた継父と再婚します。秀吉はこの継父とそりが合わず、12~13歳ごろに家出をしてしまいます。後年、太閤記では「矢作川の橋の上で木綿針を売っていた」「橋の上で寝ていたら蜂須賀小六の一党に絡まれた」とか創作されますが、どうやらアチコチをうろついていたらしいのですが、詳細はよく分かりません。ただ、織田信長の前に今川義元の家臣の家臣 松下之綱という頭陀寺城主(静岡県浜松市)に仕えていたことは事実のようです。ここで才覚を発揮して松下氏に重宝されますが、諸事情があって出奔してしまいます。同僚の嫉妬・いやがらせにあっていたようです。今も昔も「出る杭は打たれる」には変わりがないようですね。

 

その後は諸説ありますが、織田信長のもとで働き始めます。

 

松下氏や信長のもとで働いていたときの秀吉のモチベーションはどうやら「継父を見返してやる!茶坊主よりもえらくなって、足軽大将になってやる!」という反発心が原動力になっていたようです。

 

「足軽大将になってやる!」と思ったものの、どうにかして主人である信長に存在を知ってもらい、チャンスをもらわなければなりません。そこで、秀吉は一計を案じます。

 

  1. 信長の草履番になり、真冬は懐(背中という説もあり)で草履を温めておく
  2. 城の石垣修理をチーム対抗戦に仕立て、2日間で終わらせる
  3. 薪炭奉行となり、かまどの前に垣をつくり、薪炭の経費節減を行う
  4. 美濃攻めのときに、墨俣に一夜城(櫓と柵の簡易な拠点)を完成させる

 

などなど、他の家臣たちが進んでやらない仕事を積極的に引き受け、成功させていきます。織田信長に仕えたのが20歳のころと言われており、4.の墨俣一夜城は30歳のころの話ですから、わずか10年で織田家の記録文書に「木下藤吉郎秀吉」という名前を残すことに成功します。秀吉の運の強さはまだまだ続きます。

 

秀吉が34歳のころ、信長は越前(現:福井)の朝倉攻めを行い、北近江の義弟 浅井長政の裏切りにあって、挟み撃ちされそうになります。そこで、信長は一目散に京都へ逃げかえることにしたのですが、追ってくる敵勢を食い止めなければ逃げ切れません。この敵勢を食い止める役割を「殿(しんがり)」といいます。殿(しんがり)は主人を逃がしきることが絶対で、自分の命は犠牲にする可能性がある役目です。秀吉はこの役目に自ら申し出ます。徳川家康のサポートを受けながら、見事にこの役目を果たし、信長を京都へ逃がすことに成功します。

そしてその後、浅井・朝倉を討伐したあと、秀吉は北近江を拝領しました。

 

継父と喧嘩&家出から、20年でまさに一国一城の主となり、尾張国中村から家族を呼び寄せます。

 

秀吉の運の強さは「出世」だけではありません。家臣にも恵まれました。蜂須賀小六の一党や軍師 竹中半兵衛といった初期メンバーから、弟 羽柴秀長や2代目軍師 黒田官兵衛、石田三成、浅野長政、加藤清正、福島正則といった第2期メンバーに加え、千利休や前田玄以、長束正家、小西行長など有能な人材を次々と登用していきました。そして、それぞれの長所(得意)を活かした「適材適所」を実践していきました。

 

秀吉の運の強さの極みは、「本能寺の変」です。これも諸説ありますが、誰よりも早く信長の死を知ることができたことが「信長の後継者」という栄冠を掴み取るきっかけになりました。

 

 

秀吉は本当に「運が強い」だけだったのでしょうか?

 

 

秀吉はその時期に目指すゴールが明確だったので、行動にブレが無く、スピード感をもって突き進むことができたのだと思います。

 

信長は日本で初めて「天下を治める」という思考を持ち、日本を治めたあとは世界へ進出することを考えていました。家康は「戦のない世をつくる」という思考を持ち、徳川幕府の仕組みを作り上げ、約260年にわたって大乱のない世を作り上げました。

 

ところが、秀吉は・・・・・・・・・・・・・・・・・・ないのです。

 

自分が天下を治めたら、どんな世にしたいのか、何がしたいのかというビジョンがないのです。ただただ、信長のやり残したことを完成させただけなのです。

 

  1. 日本全土を制圧する
  2. 大坂城を築く
  3. 朝鮮や中国に進出する

 

なので、秀吉の死後、あっという間に豊臣の世は終わってしまいます。だって継承すべきビジョンがないのですから。

 

 

現代を見ても、圧倒的なスピード感で「ゴール」を目指して突き進む会社はたくさんあります。しかしながら、その会社はあっという間にM&Aされたり、事業譲渡をしてビジネスの舞台から消えてしまう傾向があります。

 

 

秀吉のように、時流を掴み、運を味方に引き入れ、一気に時代を制圧するスピード感は大切です。事業部の責任者や新規事業をつくる立場ならば秀吉のようなタイプの人材が向いているかもしれませんが、経営者としては継承できなかったことを考えると、向いていないと言わざるをえません。

 

経営者に向く人材と、事業をつくる人材は必ずしも一致するとは限らないことを豊臣秀吉は教えてくれているのかもしれません。