皆さん、こんにちは。組織・人事コンサルタント i-colorカウンセラーの乾 千恵(i-colorイエロー/ピンク)です。

前回は、薩摩藩で西郷隆盛や大久保利通のような優秀な若者が育った仕組みについてお話しました。今回は、薩摩の相棒となった長州藩についてお話したいと思います。

 

長州藩は、家老をはじめとする家臣の合議によって藩の運営がなされていました。そして、毎年のお正月に家臣が「殿、そろそろ」と持ち掛け、藩主は「いや、まだまだ」と返したというエピソードが残っています。これは、関ケ原の戦いで東軍に味方しなかったことを責められ、徳川家康に大半の領地を没収されたことに由来していて、「殿、そろそろ」とは「徳川家と一戦交えますか?」という問いかけで、約250年間にわたって、虎視眈々とリベンジを狙っていたわけです。(なんと執念深いこと・・・)

 

今から150年前、とうとう「まだまだ」から「うむ、時機が参った」に変わる瞬間がやってきました。そのきっかけを作ったのが・・・・

 

吉田 松陰

 

吉田松陰は毛利家の嫡男(跡継ぎ)の家庭教師になったり、藩校での兵学訓練の指南役を任じられるほど非常に優秀でした。その優秀すぎる頭脳に加えて、思い立ったら行動しないと気が済まない性格だったので、「長州藩」にとどまることができず、日本全国に飛び出していきます。特に江戸や長崎での出会いは松陰の心を大きく揺さぶりました。

松陰が学び、信じてきたのは戦国時代からの流れをくむ山鹿流という兵学です。日本国内での国盗りレベルの合戦を想定した至近距離での戦い方でした。ところが、長崎や江戸で目にした西洋の武器は、遠くからでも相手に大きなダメージを与えることができる能力があるものばかりで、鉄砲や大砲は日本のものと比べものにならない威力があります。

 

松陰はこの武器を目にすると、あることが気になり始めます。

 

日本は外国に海から攻め込まれる!あんな大砲を撃ち込まれたら負けてしまう。

当然、幕府もそのこと分かってるよね!もちろん、対策してるよね!

いや、幕府だけじゃなくて海岸沿いの各藩も分かってるよね!    

 

気になったら、自分の目で確かめないと気が済まない松陰は藩に対して「東北へ行かせてくれ!」と申し出ます。当時、ロシアは南下政策をとっていて、日本周辺にロシアの船が出没していました。そんな情報を入手した松陰は東北の沿岸を見聞したかったのです。

 

思い立ったが吉日とばかりに、藩の許可が出る前に東北へと旅立ってしまいました。本来なら「脱藩」、つまり「藩を裏切る」重罪に相当することをやってしまったのですが、藩主も優秀さに免じて「脱藩」の罪を問うどころか、東北各藩を巡る許可を与えたのです。

 

東北から戻ってくると、今度は浦賀に現れた黒船(アメリカのペリー艦隊)を見に行きたくなってしまいます。弟子の金子重輔を連れて浦賀に出かけます。もちろん、見に行って終わるわけはなく、夜になるのを待って、松陰は小舟で黒船に横付けします。「乗せてくれ!海外に連れて行ってくれ」と交渉したのです。結果はいわずもがな。もちろんペリーたちは断固拒否。仕方なく松陰は自ら奉行所に出頭、長州に送り返され、牢に入ることになりました。

 

この、牢に入っていた時間で、松陰は兵学者から思想家・教育者へ変貌を遂げます。

行動できなくなった松陰は、自分が見聞きしたこと、経験したことから思考を深めていきます。

 

・日本は西洋諸国に攻め込まれてしまう、清(中国)みたいに西洋諸国の思うままにされてしまうという危機感

・西洋諸国が差し迫っているのに何の対策もしない幕府だとこの国は亡びるという危機感

 

 

他に何もすることがない、有り余る時間を使って、この危機を回避するためにどうすべきかを考え続けました。

考え続けるだけではなく、同じ牢獄に収監されていた人たちに学問を教え、自らの思想を伝え始めます。

 

やがて牢から出ることを許された松陰は自宅軟禁となり、叔父から「松下村塾」を引き継ぎ、家族や近所の若者たちを集めます。

松陰の松下村塾は書物を読んで知識化するだけではなく、思考と対話を重視しました。江戸や京都にいる仲間からの手紙や書物を題材に、自分の意見や考えを述べ合うスタイルで、朝から晩まで「対話」が続きました。松陰の役割は「先生」ではなく「ファシリテーター」です。

 

松陰は塾生たちに尋ねます。「君の志は?」と。

松陰は「志を立てるところから全てが始まる」と伝え続けていました。

さらに、松陰は若者たちに「行動せよ!」と煽り続けます。机上の空論ではなく、実践することを推奨しました。

 

さらに松陰は塾生たちを煽るだけではなく、幕府がこの国の危機を招いているとして「倒幕」を目指し始め、老中襲撃など過激な行動を計画し、長州藩に武器の貸し出しを求めるようになります。さすがに長州藩も放置することができなくなり、再び牢獄に入れてしまいます。

ちょうどそのころ、井伊大老による「安政の大獄」が起こります。江戸や京都で井伊直弼によって捕らえられた学者や各藩の尊王攘夷派の人たちから「長州の吉田松陰」の名前が出てきます。松陰は取り調べのさい、聞かれもしない「老中襲撃計画」を進んで告白し、長州藩から江戸に送られます。そして江戸で裁きを受けることになりました。

 

江戸に送られた松陰は塾生たちに「諸君、狂いたまえ!」(常識にとらわれるな、信じた道を突き進め!という意味)と煽る手紙を送り続けます。江戸であろうと、牢獄であろうと松陰の「情熱」は覚めることがありませんでした。

そして、とうとう松陰に斬首刑が命じられました。当時、武士には「切腹」が認められていましたが、あえて「斬首」を命じたところに、井伊直弼の思惑、強い恨みが感じられますね。

 

松陰の無念に想いを受け継ぎ、松陰の最後の教え「諸君、狂いたまえ!」に触発された松下村塾のメンバーたちは「情熱」のままに動き始めます。

 

高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田俊麿・寺島忠三郎といった松陰から直に強烈な影響を受けた塾生たちは「倒幕」というムーブメントを創り出しますが、残念ながら明治維新を見ることなく命を落としました。

さらに彼らの「情熱」を受け継いだ桂小五郎・楫取素彦・伊藤博文・山県有朋・野村靖・品川弥二郎・山田顕義などが明治の新しい政府、社会、文化を創るリーダーとして活躍しました。

 

吉田松陰の暑苦しすぎるほどの「情熱」は松下村塾や長州藩だけではなく、日本全国の憂う人々に大きな影響を与えました。そして、松陰の「情熱」が原動力となって明治維新へと突き進み、国の在り方すら変えてしまったのです。

 

ちなみに、吉田松陰のように先見の明があり、興味があることにはとことん突き進み、思考の範囲がとても広いタイプは、i-color診断では、「展開グループ」に多くいらっしゃいます。

<展開グループの特徴>

・視野が広く、思考の範囲がとてつもなく広い(ワールドワイドな感じ)

・(教えを乞う人がきたら)教えるのが好き

・結構、早口でしゃべる

・興味があることにはとことんまで極める