皆さん、こんにちは。組織・人事コンサルタント i-colorカウンセラーの乾 千恵(i-colorイエロー/ピンク)です。

もうちょっと待たなければならないN〇K大河ドラマ「麒麟がくる」

戦国時代ものにしては、画面の色彩がキレイ。でも、ちゃんと汚すところは汚してるし、N〇K大河だからこそできる豪華俳優陣のムダ遣い。。。浅利陽介さんや今井翼さんが1話程度で、伊吹五郎さんでも数話しか出演してない。

そんな「麒麟がくる」の前半で主役 明智光秀を喰ってしまったのが、今日の主人公です。

 

 

本木雅弘・・・じゃなくて、斎藤道三(利政)

 

 

演じたモッくんは端正な顔立ちなのですが、残っている肖像画を見るとT〇SドラマMIU404の陣馬さんこと橋本じゅんさんに似てるかも・・・

 

余談はさておき。モッくんの斎藤道三はこんな人物像として描かれていました。

 

1)父親と2代で、大山崎(京都)の油売りから、実質的な美濃国の支配者となった

2)物事に対して自分の感情や気持ちではなく、損得で考える傾向が強かった

3)野望・野心を実現するために、己の才覚と力でのし上がってきた。

4)人生は、己の野望・野心の実現のためにあるもので、家族すら道具の一つである

 

 

ところで、斎藤道三が活躍した時代は戦国時代の前半~中盤あたりとなります。応仁の乱をきっかけに室町幕府の権威は一気に失速し、中央集権的なガバナンスが効かなくなり、地方の実力者たちがその土地を治めるようになってきた時代でした。斎藤道三の父親はこうした時代の変化に目を付け、京から割と近くて実力者が大したことない土地だった美濃国を乗っ取ることを企みました。そして、自分と息子の2代で乗っ取りに成功します。

 

 

齋藤道三と父親が美濃国に乗り込んだとき、守護の土岐家は家督争いの真っ最中で、家臣も分裂していました。

また、美濃国の家臣は「国衆」と呼ばれ、各々が村々を任されていて土着していたので、主君である土岐家とは絆が薄い土地でもありました。そこに道三の父は目を付けたのです。道三の父は、あらゆる手立てをつかって、家老の長井家をのっとり、さらに守護代 斎藤家も乗っ取ってしまいます。そして、息子 道三に後を譲ります。息子の道三は、父の意を受けて狙いを土岐家に定め、やがて土岐家を美濃国から追放してしまうのです。ここまでの道のりは、記録に残っていることは少ないのですが、おそらく、武力に優れていたわけではなく、執念深く調略や謀略など手段を選ばずに成り上がったと思われます。何せ、「美濃のマムシ」ですから。ロックオンした獲物は丸呑みするマムシとあだ名されたわけです。

 

 

父親と道三、2代で乗っ取った美濃国ですが、思わぬところで足元をすくわれてしまいます。

 

1)跡継ぎ 義龍が「悲劇の御曹司」プレイにハマってしまったこと。

2)斎藤道三は、嫌われ者だったこと。

3)跡継ぎ 義龍よりも娘婿 織田信長のほうがスケールのでかい人物だったこと。

 

1)跡継ぎ 義龍が「悲劇の御曹司」プライにハマる

齋藤道三の「不覚」ともいえるのが、父親と2代にわたって邁進してきた野望・野心を息子には理解してもらえなかったことにあります。というよりも、息子 義龍を教育しなかったと言った方が正しいかもしれません。そのおかげで、義龍は家臣たちの勝手な噂を信じ込んでしまい「悲劇の御曹司」プレイに酔いしれ、最終的には父 道三を殺してしまうという事態になってしまいます。

 

道三は、「義龍を嫌っていた」とみる歴史学者もいたようですが、「嫌っていた」のではなくて、「理解できなかった」のだと思います。道三や道三の父は、ゴールを定めたら、そこに向かってひたすら邁進することを考えるタイプです。おそらく似た者親子だったのでしょう。しかし、義龍は生まれたときから父 道三が美濃国の支配者だったこともあり、目指すべきゴールが分からなかったのだと思います。そのうえ、家臣たちは「義龍様は、道三の子ではない、土岐頼芸(よりよし)様の子だ、正当な美濃国の支配者だ」と噂していました。どうやら義龍はその噂を信じていたようなのです。道三はその噂を上手に利用して、義龍が美濃国を支配しやすくなるのでは・・・と考えていたようなのですが、義龍本人はそんなことを微塵も考えていなくて、「土岐頼芸様は、道三によって我が母を取り上げられた。我が母は妊娠していたのに、やむを得ず道三のもとに行った」と信じ、自分は「悲劇の御曹司」だから、悪者 斎藤道三を討ち果たす!と「長良川の戦い」に挑んだわけです。

 

2)斎藤道三は、嫌われ者だった

道三のもう一つの「不覚」が、「仲間」「協力者」が居なかったことです。道三の父の時代には、そのやり方を苦々しく思っていた家臣たちもいたようなのですが、立ち向かう余力はありませんでした。しかしながら、美濃国内での対立が鎮まってくると、道三のやり方を苦々しく思ってきた感情を隠す必要がなくなってきます。道三が気づかないところで反対勢力が結集していました。この反対勢力と、息子 義龍が結びついてしまったのが、道三の運の尽きだったと言えるかもしれません。

 

3)跡継ぎ 義龍よりも娘婿 織田信長がスケールのでかい人物だった

そして、娘婿 織田信長の存在。

私たちは、その後の流れを知っているので、織田信長が稀有なスケール感で世の中を眺める人物だと分かっていますが、同時代の人間には「理解不能」「変わり者」でしかなかったのです。ところが、道三は信長と会見した後、帰りながら「悔しいが、わしの子たちは信長の家臣になるだろう」と語ったと言われています。また、信長も己の才覚だけで美濃国の支配者に成り上がった斎藤道三には憧れに近い感情を抱いていたと言われています。真偽は不明ですが、道三は義龍との戦いが避けられなくなったとき、「美濃一国譲り状」という「美濃国は娘婿 信長に譲る」と書き残した手紙を信長と妙心寺の僧となった息子に送っています。もしかすると、父親や自分以上の器量(才覚と野望)を持った信長だからこそ、自分たちが命懸けで勝ち取った美濃国を譲りたいという気持ちになったのかもしれません。

 

 

 

応仁の乱によって、旧来の秩序や価値観が揺らぎ、支配される側から支配する側に移るチャンスが見えたとき、斎藤道三と道三の父親は果敢にその野望実現にチャレンジをしました。野望実現のためならば、陰謀や悪辣なことも、時には家族すら「手駒」の一つだと、それが悪逆非道なことだと考えたことが無かったのだと思います。道三と父親は美濃国を手に入れ、支配者になる野望を実現しようとしました。斎藤道三が現れたことで、土岐家の身内争いをしていた美濃国内での争いは無くなっていき、隣国の織田氏や近江 六角氏などが侵入してきても追い払われるようになり、美濃国の政情が安定するようになったのは確かです。しかしながら、その安定が短命に終わってしまったのは、道三が自分一人で頑張ってしまった所以と考えることができます。確かに自分で考えて、自分で行動すると「早い」かもしれません。しかしながら、歴史を眺めてみると協力者」「信奉者」がいないと短命に終わる傾向があるのです。

 

 

齋藤道三のようなタイプは、現代にもいます。思い当たる方は、ぜひ自分がやりたいことに協力してくれる部下や同僚、自分のことを信じてくれる部下や同僚をつくることに専念されることをお勧めします。

 

1)これ!と決めた目標達成のためならば、どんなことでも取り組む

2)立てた目標は、必ず達成する

3)周りと協力して・・・というよりも、自分で頑張りたい、自分の成果を明らかにしたい

4)「目標達成」に関係ないことは眼中にない。やりたくない。やらない。

5)目標達成するための作戦を考えることは楽しくて仕方ない。